お見合いの前夜、鏡の前で服を合わせながら、
「手土産、持って行ったほうがいいのかな」と迷う人は少なくない。
マナーとして渡すべきか、それとも堅苦しくなるか。
小さな包みひとつが、まるでその日の行方を左右するように思えてくる。

けれど、この迷いの正体は、実のところ「相手への思いやり」よりも、
「自分がどう見られるか」への不安に根ざしていることが多い。

婚活の場では、“正解”を探す心が働きやすい。
服装、話し方、LINEの返事のタイミング、プロフィールの書き方……。
そして、その延長線上に「手土産」という項目がある。
だが、見方を変えれば、この小さな贈り物こそが、
“人との関わり方”を静かに映す鏡なのかもしれない。


たとえば、形式として手土産を持っていく人がいる。
お菓子の詰め合わせを丁寧に包み、
「今日はお時間をいただいてありがとうございます」と笑顔を添える。
それはとても美しい礼儀であり、相手も安心する。
けれどそこに「これを渡しておけば印象が良くなるはず」という思惑が混ざると、
贈り物はどこか、空気の中で浮いてしまう。

逆に、「手土産なんて重いと思われたらどうしよう」と迷った末に何も持たず、
その代わりに心からの挨拶や気づかいで場を整える人もいる。
それは、形のない“贈り物”である。

つまり――手土産の有無よりも、
「この人と会うことにどんな気持ちで臨んでいるか」が、
そのまま相手に伝わってしまうのだ。


お見合いは、“取引”ではなく、“対話”である。
だからこそ、何を贈るかよりも、どんな心で贈るかが問われる。

実際、手土産には「関係性をつなぐ」「感謝を示す」という本来の意味がある。
それは、“好かれたい”という自己防衛ではなく、
“相手を敬いたい”という穏やかな姿勢から生まれる。

たとえば、出会う前から相手の好みを調べ、
「お茶が好きと書かれていたから」と選んだ茶葉を手にする。
そこに「あなたの言葉を読んで、少し想像しました」という心が宿る。
それはもう、モノではなく、“気づき”の贈り物になっている。

この小さな行為は、婚活の結果を変えるための戦略ではなく、
「人として、どう在りたいか」の表現である。


けれど、もう一つ、忘れてはならない視点がある。
「手土産を用意しなければ」と思い詰めてしまう自分の奥には、
“自分を信じきれない心”が隠れていることがある。

何かを差し出さなければ、相手に価値を感じてもらえないのではないか。
そんな無意識の恐れが、きれいな包装紙の奥に潜んでいる。

だが、本当に魅力を感じさせるのは、モノではなく、
「この人は自分のことを大切にしている」という安心感だ。
そしてそれは、過剰な気づかいではなく、落ち着いた“信頼”から生まれる。

「相手にどう見られるか」ではなく、
「相手とどんな時間を作りたいか」に意識を向けると、
自然と身のこなしも言葉も柔らかくなる。
それこそが、一番の“贈り物”なのだと思う。


お見合いの席で、贈り物を渡す人と渡さない人。
どちらも間違いではない。
大切なのは、「どう思われたいか」よりも、
「どう関わりたいか」を見つめているかどうかだ。

たとえば、あなたが手土産を渡すとしても、
それが“良い印象のため”ではなく、
“今日という時間に、少しだけ彩りを添えたい”という気持ちからなら、
その包みには温度が宿る。

反対に、何も持たずに現れたとしても、
「お会いできて嬉しいです」という素直な一言と、
相手の話を丁寧に聴く姿勢があれば、
それは十分すぎるほどの誠実さになる。

つまり、贈り物の「有無」は形式でしかない。
人と人が出会う瞬間に、本当に問われるのは“意図”である。


婚活では、「正解」を探そうとするほど、
自分の感覚が鈍っていく瞬間がある。
マナーや印象のマニュアルに従うことは安心をくれるが、
それだけでは心の距離は縮まらない。

人は、“ちゃんとしている人”よりも、
“感じ取ろうとしてくれる人”に惹かれる。
そしてその“感じ取る力”は、
人に好かれるためではなく、
人を大切にしようとする気持ちから育つ。

お見合いの手土産に迷う夜は、
実は「自分は何を大切にしたいのか」を見つめ直す時間でもあるのだ。


思えば、婚活という道のりは、
相手を探す旅であると同時に、
自分の“心の在り方”を探す旅でもある。

誰かに選ばれるための自分ではなく、
誰かを想う自分でありたい。
その姿勢を思い出せる人ほど、
やがて自然と、穏やかなご縁に導かれていく。

お見合いの手土産は、必ずしも必要ではない。
だが、相手を思う一瞬のまなざしや、
丁寧な言葉遣い、落ち着いた呼吸――
それらは、目に見えない“手土産”として相手の心に残る。

包み紙よりも、心の包み方。
マナーよりも、想いの温度。
お見合いの場とは、そんな“贈り合い”の時間である。