「なんとなく、敬語が抜けないんです」
そう打ち明ける女性は少なくない。
最初のデートでも、何度目かの食事でも、自然と「です・ます」が口をつく。
相手は笑顔で「そんなにかしこまらなくていいよ」と言うけれど、
それでもつい、丁寧語が離れない。
気づけば、自分でもどこかよそよそしいまま、距離が縮まらない。

敬語とは不思議なものだ。
一見、礼儀正しく、相手を尊重する美しい言葉のようでいて、
ときにそれは“心の盾”にもなる。
無意識のうちに、自分を守る膜のように機能しているのだ。


多くの人は、敬語が抜けない自分を「距離を縮められない不器用さ」だと責める。
「もっとフランクにならなきゃ」「可愛げがないのかも」と焦る。
けれど、本当はそれほど単純な話ではない。

敬語が抜けない人は、たいてい“他人に踏み込みすぎない”やさしさを持っている。
相手の領域を尊重しようとする慎重さ。
そして何より、「嫌われたくない」「乱暴に見られたくない」という思いやり。
それらは、長年かけて身につけた誠実な美徳でもある。

だが同時に、その優しさが“自分を隠す壁”にもなる。
誰かと心を通わせようとするとき、
礼儀正しさの中にほんの少しの「無表情さ」が混じってしまうのだ。
相手は、「まだ心を開いてもらえていないのかもしれない」と感じる。
そのわずかな違和感が、関係の温度を決めてしまう。


よく婚活では「早く敬語をやめて親しみを出そう」と言われる。
たしかに、言葉のトーンが変われば印象も柔らぐ。
だが、本当に距離を縮めるのは“ため口”そのものではない。
敬語のままでも、心を通わせることはできる。

大切なのは、言葉の「型」ではなく、「温度」だ。
たとえば、「ありがとうございます」という一言でも、
その声に心がこもっていれば、敬語であっても親しみは伝わる。
逆に、「ねぇ、それさ」とフランクな口調で話していても、
どこか冷たければ距離は縮まらない。

つまり、敬語をやめることが目的ではなく、
“心を込めて話すこと”が、親密さの始まりなのだ。


それでも、なぜ私たちは敬語の奥に隠れてしまうのか。
そこには多くの場合、「失望される怖さ」がある。
ため口で話した途端に「軽い人」と思われたくない。
親しげに振る舞っても、相手が同じ温度で返してくれなかったらどうしよう。
そんな小さな不安が、丁寧な言葉づかいを強化していく。

本当は、恋愛において最も大切なのは“好かれること”ではなく、
“自分のままでいられること”なのに。
それをわかっていても、つい「正しい距離」を守ろうとする。

しかし、その“正しさ”が行きすぎると、
「自分の感情」まで抑え込んでしまう。
喜びも、寂しさも、照れくささも、丸ごと飲み込んで、
“丁寧な人”という仮面の中に閉じ込める。

けれど、恋は感情が動いてこそ始まる。
どんなに穏やかで優しい言葉でも、心が揺れていなければ、
相手の心を動かすことはできないのだ。


敬語をやめようと意識するよりも、
“自分の気持ちをほんの少し見せる”方がずっと大切である。
たとえば、
「そうなんですね」ではなく「それ、すごいですね。なんか嬉しくなります」
と言ってみる。
「楽しかったです」ではなく「楽しかったです。また会いたいなって思いました」と続けてみる。

それだけで、言葉が少し温かくなる。
敬語のままでも、“あなたと話すのが嬉しい”という心がにじむ。
相手はそこに、あなたの「素」を感じる。
敬語という鎧を脱がなくても、心は十分に通じるのだ。


やがて、本当に心を許せる人と出会ったとき、
ふとした瞬間に敬語が抜ける日がくる。
それは努力の結果ではなく、安心の証だ。
「もう、気を使わなくても大丈夫」と、
体が自然に判断した瞬間に、言葉は柔らかくほどける。

そのとき初めて、「敬語が抜けない自分」を責める必要などなかったとわかるだろう。
敬語を使い続けてきた日々は、
実は“慎重さ”と“思いやり”を学んできた時間でもあったのだから。

恋は、急がなくていい。
敬語が抜けないのも、あなたが優しい証拠である。
けれど、その優しさの中に、少しだけ「自分を出す勇気」を混ぜてみよう。
それが、人との距離をほんの一歩だけ近づける。


敬語が抜けないことは、恥ずかしいことではない。
むしろそれは、誰かを大切にしようとする“祈りの形”のようなものだ。
ただ、恋愛においては、その祈りに「自分の体温」を加えることが必要になる。

言葉に少しの感情を乗せる。
それだけで、敬語の中にも“ぬくもり”が生まれる。
それができる人は、丁寧でありながら、真実のある関係を築ける人だ。

「敬語をやめなきゃ」と焦る必要はない。
むしろ、敬語の中に“心の声”を灯すこと。
それが、あなたらしい恋の始まり方なのだ。